本当の精神的自由とは
あなたは生まれてから一度でも、真の自由について考えたことがありますか? 私は自由の意味すら履き違えていたのだと思い知りました。 その理由は最後にお話しするとして、まずとにかくこの本の著者である主人公が、小さな日本の片隅で、独特の感覚を持ちながら成長される様子がとても印象的に感じました。
「古い日本には、厳格なうちにもこうして四海同胞の精神は脈々と流れていたわけでございます」
どうしたら若くしてこんな風に考え生きることができるのか。
その秘密は、もちろん彼女の素質も大きいかもしれませんが、文章から、厳しい躾や教育を受けただけではなく、自然、歴史ある建物やお城、日本の伝統文化多くの家族や女中さん達に囲まれ、様々なお客様と接する機会も多いことが伺えるので、その中で、著者は感性、好奇心、教養を高められ、思考を続けることでおのずと視座が高くなられたのではないかと考えました。
そう考えると、厳格なことも悪くないと思わせてくれます。ただ厳格なだけではなく、そこには深い愛があり、だからこその四海同胞の精神もある。それはそもそもが日本の神話や仏教を信じる心があるからこそ、生まれる精神なのではないかと考えました。なぜなら、日本神話は全ての物事に神が宿ると言われ全てを慈しむ心を伝えているからです。
主人公の神道、仏教、キリスト教に触れ信仰心とともに、感じ、考える姿勢が主人公の素晴らしい人格を作っていったのです。
それだけではなく、主人公は時代を越えて過去や古いことも慈しみ、感じ、考え、思いを馳せるということの大切さにも気づかせてくれます。
だからこそ、異文化や、新時代、新しく触れる全てにおいても受け入れ、愛するということができるのではないかと感じます。
なぜなら最後の部分で
「真の自由は、行動や言語や思想の自由を遙かにこえて発展しようとする精神的な力にあるのだということが判りました」と悟られていて、このような遥かにこえて発展しようとする精神的な力こそが、彼女がずっと行ってきたことだからです。
「皆が新調の着物を着、お互いに作法正しく、お精進料理を頂いて楽しみあうことをご先祖さまも喜んでいて下さると思うからでございます。」
「父は、私共のところへ参って慰め、また舟出をされた今も、私共に平和をのこして行って下さったのだと、しみじみ感ぜさせられたことでした。」といった言葉から、
このような目に見えないものを大切にする心が、古き良き伝統も消えつつあり核家族化が当たり前、自由が当たり前となった物質主義の現代において、他人との繋がりがドライになる中で決して忘れてはいけないことのように思えてならないのです。
“あのお坊さまから教えられたことを思い出して、学びの道にあるものが安逸を求めては恥だと思い、歩くことにしておりました。”
このような普通の人は素通りしてしまいそうな小さな事でも、それが例え辛い状況であっても、楽な方に流されず、苦しくても自分なりに考えて行動するという習慣があちらこちらに見られ、また、
「見物しながらも縫物や編物で、手は忙しそうに動いておりました」からも、新しく出会う人とのやり取りの中でも、このように抽象的視点、具体的視点と無意識に視座を変えながら本質への関心を深めていく姿が見られたため、その探究心こそがやがて大きな確信となるのだと感じました。
1人の母としても考えさせられました。
子供を想い可能性を広げてあげたいと願う気持ちと、その反面、社会のルールや世間に迷惑にならないようにという気持ちの狭間で“果たしてこのままでいいのだろうか。”と考えるのは、日本とアメリカでなくても、今の日本ではどこでどう育てるのか選択の自由があるだけに悩ましいところでもあります。
「日毎の忙しさにとりまぎれ、また家庭がうまく融けあってゆくのに満足しきっていましたので、年寄りの方で気持を撓めても、年若い子供を中心に考えてやるべきであるということをすっかり忘れておりました。私は得ることのみを考えて、その蔭に横わる大きな損失を忘れていたのでした。」親はつい表面的なことに意識がとられ大切なことを見落としがちかもしれませんが、『「いいのよ。私、もう日本が好きになったのよ。でもね、時々この胸に火がついたようになるのよ、そんな時、ずいぶん駈けたりしたわ。それから一度、お母さまのお留守の時、お縁側の傍の松の木に登ったのよ──たった一度だけ──もう登りませんわ。これでいいのよ、私は日本が大好きなんですもの」と申しました。』子供からのこんなメッセージから
『「ちょうど花野もこの通りだこと。松の植木は明日また植木鉢に入れられることでしょう。松も花野も同じなのだ」私は深い溜息とともにひとりごちました。』このように主人公は感じています。
私はアメリカ的に子供中心に考えてやることはとても大事だと思うのですが、日本の中で育つことにもまた意義のあることではないか。また大事なのは、その現実から本人が何を感じ何を学びその先を切り拓いていくかということなのであって、どちらが正しいということではないと感じました。
なぜなら、「私は花野が母の好み通りに適わせてゆく様を見て喜びながら」の言葉から、子供は素直で純粋で順応性が高いことがわかるからです。
子供はどこにいても、順応して育っていく。けれども、だからこそ日本にいるよりも、子供達の素質を伸ばせるような環境を与えてあげたいと願い模索する主人公に、母として深く共感し、今日も親としてのベストな行動を考えさせられるのでした。
一点悲しく感じたことは、
昔の人は身分の差であり方も人生も決まってしまう。ということです。これは世界の歴史をみても明らかですし、現代においても未だそのような制度が残っている部分もあります。かたや、現代の国のほとんどはお金が人生を支配していると言っても過言ではないことに気付きました。
主人公はそれなりに恵まれた環境で育ったと思います。それなりの教育や躾を受けたからこその素晴らしいお人柄とも言えるのではないでしょうか。学びたくても、環境が許さない人の方が多い、もっと過酷な状況で生きている人ももちろんいたことでしょう。なぜなら、主人公の家ですらも、散り散りになったことから人々は現代とは比較にならない程の厳しい制度のもと生きていたことが伺えるからです。
それでも生き延び、主人公が全く違う世界を生きるようになったことはご縁あってのことが大きいですが、現代においては、努力で環境が変えられるという点に気付けたことは私の中で大きな気付きとなりました。
最後に私が最も印象に残ったのは、
「あから顔の異人さんも、神国日本の人々も、今尚互いの心を理解しおうてはおりませず、この秘密は今も尚かくされたままになっておりますが、船の往来は今なお絶えることもございません。絶えることもございません。」の部分です。
国が変わっても、人情は同じであるのに、なかなか理解し合うことができないもどかしさの問いかけとも言えるようなこの最後の言葉には大変心を打たれました。
この作品を書くまでに(異国で日本について考えさせられる機会が多かったとしても)どれだけのことを主人公が考えてきたのかを想像すると、正に人間の真理をついた言葉であるため、普段いかに考えもせずに自分自身や人、ものごとと関わってきたか気づかされます。
私達1人1人がしっかりと考え、想像していくことでそのかくされた秘密は明らかになり、国境を越え人種を越え理解し合う世界を作ることができるのではないかと語りかけてくれているような気がしました。
なぜなら、主人公自身がアメリカで関わった周りの人達と、素晴らしい人間関係を築き、国境や人種を越え精神的に理解し合う世界を築いているからです。
まとめ:時代の変化に対応するということ、異文化を受け入れるということは、最近の日本の若者を見ていると当たり前で容易いことのように感じてしまいますが、実は私達現代人の御先祖様たちは真逆のような世界を生きてこられたのだと思うと、何気なく繰り返されるこの日常が夢の中の世界のようで本当にありがたいことなのだということです。
武士の娘としても、グローバル化社会の先駆者としても、令和に生きる私達よりも先を行くような思考力に圧倒されつつも、私はこの主人公の後に続き、全力で考え、ありのままを受け入れ慈しむ精神を持ち人生を生ききることで、御先祖様たちからの命のバトンを、次の世代へと繋いでいきます。