読解力が人間を救うワケ

AI VS 教科書が読めない子供達

この本を読んで、読解力について、今まで意識もしなかったことについて考えさせられました。

特に、読解力を“未来を切り拓くための手段”として使いこなすという意識を忘れないこと。このように私は考えました。

それから、読解力がなければまず仕事がなくなる可能性がある弊害について考えました。

その結果、私達人間は読解力を“未来を切り拓くための手段”として使いこなす意識を忘れてはならないという結論に至ったのです。

読解力がないことで起こる弊害についてですが、読解力、思考力、想像力がないと、本人の不孝な境遇から抜け出せず犯罪に走る場合があるということ。

不孝な境遇というのは、例えるとまず学歴にどう頑張っても顕著に反映されてしまうということです。これは本書にも書かれています。

読解力がなければ、どんなに本人が頑張っていても、努力の方向性を間違えて結果に繋がらない。それほど不孝なことはないと思います。

また、読解力がないと文脈や本当の意図が理解できなかったり、間違って理解認識してしまうリスクが書かれていましたが、ということは日常会話においてもコミュニケーションに支障があり得るということ。そこから『ケーキの切れない非行少年たち』を思い出しました。

その本にも書かれていますが、学校での勉強ができないことからのいじめや、生徒同士、先生や周りの大人とのコミュニケーションが円滑にできないことからくる弊害、そういったことが積み重なり非行に走ったり、最悪な状況は犯罪に手を染めてしまう青少年が実際にいるということ。

程度の差はあれ、苦しいのは読解力がない本人達なのです。

私が危惧したことは、

そう捉え違いをしたまま正しいと信じて疑わない他の視点が持てない人間と、

読解力、思考力、想像力を駆使してあらゆる角度から問題解決をして成長していく人間

この間に生まれる格差による社会問題です。

非行に走る少年たちにとどまらず、読解力がない大人でさえも仕事をAIに奪われ、自暴自棄になったり、他人へ責任転嫁したり、その果てが人に危害を加える行為に及ぶ可能性があります。

もし読解力がない人間の割合が増えたら、

コロナウイルスが猛威をふるうこれからの社会は、犯罪が増えるのではないか。

全うな人間がいかに犯罪撲滅運動をしたところで、ケーキの切れない非行少年たちの内容からも、やはり著者のいう幼少期から培う読解力という問題から解決していくしか根本的な解決はできないのではと感じました。

または、自殺を選ぶにしても、自殺者が増える可能性は否定できないのではないでしょうか。

現にこれは既に大きな社会問題であり、厚生省のデータによると、自殺者数は平成10年の頃、バブル崩壊後に3万人を超えしばらくそれが続けていて、その後景気回復や相談体制、地域の取り組み等で緩やかに減少しています。

ですが、コロナウイルスによる絶望的な経済大打撃を考えると自殺者が増えることは容易に想像できます。

死を選ばずに生き残る方法を模索しなければならない時、やはり読解力は必要不可欠ではないでしょうか。

なぜなら、死を選ばずとも自治体や国の施策に目を向け手当たり次第に情報を得ることができれば、救済されるための方法があるのだから。

そういうと、自殺者の気持ちになったらそれどころじゃないだろうという人もいるかもしれません。それは、確かにそうとも言えると思います。

私が以前、自殺を考えた時、周りの話など全く耳に入って来ませんでした。追い込まれると余計に周りが見えなくなることも少しは理解しているつもりです。

ですが、私に読解力があるとは言いませんが、その時私が救われた唯一のきっかけが、他者からの言葉だったのです。

何気ない言葉の意図を、読解力を使いどう解釈し、どう受け止め、考え、想像しどう未来に繋げるか。自殺を止めるには、それしかないのではと今の私は考えています。

読解力でいえば、私は読解力がないばかりに苦しんでいる方の人間です。

今ちょうど子供がみている仮面ライダーシリーズのゼロワンでAIとシンギュラリティがテーマであるのに、よく考えてみたら、

与えられるストーリー、情報そのままを何の疑問も持たず、そういうものなのかーと、イメージそのまま刷り込まれていました。

AIとは?シンギュラリティとは?

AIと人間の未来とは?と深く考えることもなかったのです。著者が指摘するAIとシンギュラリティの本当の意味を捉え違えていたことに、この本を読んで初めて気付かされました。

気づいた瞬間、情報を鵜呑みにしてはいけない。

読解力をつけて、調べたりしっかり考える癖をつけなければと改めて考えさせられました。

なぜなら、情報は人為的なものであり、操作できるからです。この本にもありましたが、ロボットに教育する際、そのデータが間違えていたら大変なことになるのです。

ということは、ロボットも、人間にプログラミングされていたら、完全ではないということで、

人間は、人間に与えられた情報で作られたAIと共存していくには、常にそこも頭に入れておかなければなりません。

ということは、AIとうまく共存していくためにも、私達人間はどう転がっても

読解力、思考力、想像力といった人間にしかできない能力を高めて、AIを正しくコントロールする立場にいなければならないのです。

機械は読解力がないのが幸い、未来を想像できない。ということは、未来は人間の能力次第ということではないでしょうか。それを著者は読解力という能力と指摘しています。

私も混同していましたが、AIと人間とでは、そもそも、土俵が違ったのです。

ただ、AIに代用できる仕事が増えることで、今の仕事を失うかもしれないけれど、だとしても私達人間は、ただAIにできなくて私達ができることで、より豊かな未来を想像すればいいのです。

そのために、仕事を奪われる前に必死になって読解力を高め人間にしかない能力を磨き、生きる術を模索する必要がある。

一つだけ希望があるとしたら、

現在勉強しているマーケティング理論によれば、この世界には人の数だけ問題があり、それを解決することがわかれば、その問題を解決することでお金を頂くことができるということなので、その術を身につければ、どんな立場でも生き残ることができるということです。

そこを身につけるためにも、人の悩みを知る、円滑なコミュニケーションを取る上でやはり読解力は必要不可欠なのです。

そう考えたら自ずと、機械にとって変わられるのではなく、読解力をつけ、読解力を“未来を切り拓くための手段”として、今自分が何をしたらいいかを考える必要がある。という著者のいう通りの結論に至りました。

ケーキの切れない非行少年達の心の叫び

ケーキの切れない非行少年達を読んで

少年院に入る非行少年達の中には、実は認知機能になにかしらの障害があるということに気付いてもらえなかったことが原因で非行を繰り返すしかなかった少年達が多くいるということが衝撃でした。

子供は私達大人が作った社会で、そのルールのなかでしか生きることができないシステムになっているため、この問題における子供達は現代社会が生み出した被害者であり、それは完全に周りの大人や社会の仕組みに落ち度があるということです。

なぜなら本書にも書かれている通り、初期段階では大体小学2年生頃から勉強についていけない、周りの子たちと同じように行動できないといったなにかしらの問題が出始めていて、その段階で原因を調べることができしっかりとサポートしていれば少なくとも犯罪には手を染めずに済む可能性が高いからです。

社会全体でしっかりと認識し、そのような子供達の芽を積んではいけないと涙が出そうになりました。

彼らがどうしたらいいか自分でも分からずに、周りからは非難され続け、認めてもらえず、非行の後はひたすら反省させられ時には必要もない薬漬けにされてしまうケースもあるというのは想像を絶する苦しみや絶望があると思いますし、もはや拷問であり、虐待ではないでしょうか。

その後の人生もめちゃくちゃです。

大人達がめちゃくちゃにしてしまった彼らの人生を、誰が責任を取れるのでしょうか。

そんな悲惨な現状があり、被害者でありながらも自殺せず生きているだけでも健気ですし、素晴らしいことだと思います。命を絶ってしまったら、救おうにも救えないですが、著者のコグトレを受けたくても受けられないわけで、まずは被害者である彼らをその現状から回復させ人として自尊心を感じて生きられる社会を作らなければならないと感じました。

そしてこれ以上、同じような子供達を増やしてはいけない。それは犯罪者を減らすという意味でもありますがそれ以前に、現在社会や大人達の被害者になる子供を増やしてはならないということです。

そのために私にできることは、学び、考え、発信することだと考えました。

その理由は3つあります。

1つ目は、学校で気づいてもらえなくても、家できちんとコミュニケーションがとれていれば、子供の様子や学習状況も把握していく中で些細な変化に気づくことができるからです。

学校や社会の仕組みというのは一つ変えるのに時間がかかりすぎます。

ですから、学校や社会になんとなく任せっきりという責任放棄の考えを今すぐ捨てて、大人1人1人が、1人の人間としてそのような意識を持つところからスタートする必要があります。

2つ目は、認知がきちんとできないことの弊害は、非行少年だけではなく、私達大人でも大なり小なりあるのではと著者も本書で書かれていますし、私自身も社会生活を送る上で自分自身や人とのやり取りでそう感じることがあるからです。

例えば、イライラしやすいとか、人とのコミュニケーションが難しく感じるとかそういった類いのことの原因の一つに認知の問題があるということです。

文中に、「適切な自己評価は他者との適切な関係性の中でのみ育つからです。」とありますが、これはまさに私のことかなとドキっとしました。非行少年の話ですが、私にも当てはまることがあります。大人でも本当に適切な自己評価ができる人は意外と少ないのではないでしょうか。

程度の問題こそありますが、本にも書かれているように、私達大人であっても社会生活でストレスを感じることなどの根本は同じなのだと理解しました。

3つ目は、本の中にも、少年院ではなく病院にくる子供達は親が早い段階で手を打てるというか病院に連れてくるということはそういうことだと書かれていますが、大人が早期にしっかりと手を打てば犯罪に手を染め更なる被害者を生むという最悪の状況は避けられるからです。

犯罪を犯すまで放置されてしまった子供達が可哀想になりました。と同時に、私の子供達にはちゃんと気づくことができるのか。そういった視点も忘れずに過ごしたいと思いました。

また、周りの雰囲気で、わからないとも言えないでわかった風に装って事態が悪化してしまうのいうのもとても可哀想だと思いました。

オンライン化が進む現代なら、もしかしたら周りを気にせずにその子のペースで学びができるかもしれません。が、親の私達が変わらなければなかなか難しいのかなと感じます。

本書でも、

「WAISを全員に行う時間がなかなかないため」

『「知的な問題がない」とされたら、何か問題を起こした時、健常少年と同じ厳しい処遇をされてしまいます。』

「週にわずか1時間、道徳の時間があるだけです。では、道徳の時間で社会面の支援をしているか?」

という具合に、大人達が作り上げてきた仕組みの問題点が上がっています。

専門家が全力でやっている現状でも、本質にアプローチできていないのだとわかり愕然としました。

宮口先生のような活動をしている方がもっと社会全体に認識され、一刻も早く仕組みを変える取り組みが進むといいのですが、私も社会活動をしていく上で、例え本業とは直接的に関係ないことでも、無知を知ること、学び続けること、そしてそこから考えること、プラスそれを発信していくことが大事なのだと気づきました。

そうやって1人でも変わらなければ、社会は変わりません。

また、障害のある子供達を改善するには、「対人スキルの方法、感情コントロール、対人マナー、問題解決力といった、社会で生きていく上でどれも欠かせない能力を身につけさせること」と書かれていますが、やはりこれも1人の力では到底難しいことです。

ですが著者のワークは一般家庭でも取り入れられるようなので、1人の母として実践しTwitter等で発信するのも手かなと思いました。

どのように発信すれば子育て世代に刺さるかを考えると、実際に私の子供にやってみてどうか、など分析して発信してみるのも面白いかもしれません。うまくいって拡散すれば、それだけ多くの無関係だと思っていた大人に届くことになります。

実は“学ぶことに飢えている”子供達にとっても、大人が全力でバックアップしてくれるようになることは最大の安心感を生むのではないでしょうか。

最後に、「子どもの心の扉を開くには、子ども自身がハッとする気づきの体験が最も大切です」

の部分で私自身がハッとしました。

子育て、教えるとなると一方通行になりがちですが、そうではなく、視点を変えることが大事なのだと気づきました。

それは大人だからこそできることでもあり、大人だからこそ頭が硬くなっていて難しいことなのだと、大人でも子供でも、頭を柔らかくする訓練がとても大事なのだと本書を読んで感じました。

余談ですが、戦時中、戦後の祖母の話をふと思い出しました。

当時は学校どころではなく、文字を書いたり読めたりすればいい方という時代だったことを思うと、認知がどうのなんて知りもしない時代から、70年近くで教育の分野がものすごく成長したのだと驚くと同時に、まだまだ問題や課題が多いのだと知ることができました。

著者は、子供達を救うためには関わる時間が多い学校教育が鍵としていますが、私は全ての親に必修で基礎的なことをレクチャーしコグトレのようなものを全家庭でできるシステムを使り、学校と親と行政とがもう一歩深く繋がる仕組みがあった方が良いのではと考えました。

形だけの全国学力テストの結果ばかりにとらわれず、もっと大切なものを拾って底上げしていくことが今の日本にはとても大切な気がします。

全員が、認知機能やコミュニケーション能力についての認識が少しでも変われば、自分の可能性に気づく子供が増えることは本書にも書かれていますし、可能性に気づくことでより学習への意欲もわくケースもあるということであれば、受験戦争のような勉強法よりよほど生産的なのではないでしょうか。

むしろ義務教育や一般教養として必修にすれば、この社会は誰もがもっと生きやすくなるのではと思います。

まずは1人でも誰かの目に留まり、小さな変化を生み出せることを祈りつつこの感想文をブログにアップします。

失踪日記の本質

この本を読んで一番考えさせられたのは、

自分の人生を客観視するということです。

私は今、自分を客観的するトレーニングをしていますが、いまいちマスターできずにいます。

ですがこの漫画に出会い、客観視とはこういうことかと稲妻に打たれたような衝撃を受けました。

著者は漫画家なのでそういったスキルに長けているのかもしれませんが、自分が自殺したことをこんなタッチで描けるでしょうか。

自殺未遂に留まらず、ゴミ箱をあさり、もはや食べ物とは言えないカビだらけの食べ物を工夫して食す、そして体を壊しのたうち回り、凍死寸前の生活…最終的にアル中の幻覚もコミカルに描かれていますが、本人が実際どれくらい辛かったかを想像するだけで心が持っていかれてしまいます。

それをこんな風に作品として書き上げてしまうというのは、まさに客観視の極意を見せて頂いた気分です。

もう一つ、この本から人間の生命力を見せつけられた気がします。

死のうとしてもなかなか死ぬことができない点もそうですが、未遂のあとの行動は生命力以外の何物でもありません。

死なないために、生きるために、勝手に考えて行動でき余程のことがない限り死なないのだとわかりました。死なないどころか、

意外と人との関わりがあるもので、そこからご縁があったりして生きる世界も変わっていく、そしてまた人間らしい世界にも戻ることもできるのです。

ということは、死を選ぶ人は、人間のその生命力の可能性を知らないから、“自分はもう死ぬしかない”という考えしかなくなると想像しました。

なぜなら、死ねない、という選択肢があれば、著者のように嫌でも“生”を求め、その時点で“生きるための方法”を探し始めてしまうからです。

浮浪者になるくらいなら死んだ方が良い、ですとか、生きていることが迷惑だから死んだ方が良いといったその人なりのプライドや価値観で自分を追い込み、自分で自分の可能性を消してしまっているのだと想像しました。

自殺者が増えると言われているこのご時世に、自殺を減らすためにも、全員が読んだ方が良いのではと感じています。

それから、ご縁は自らの意志と行動で導かれる、ということも著者の経験を通してわかるので、

生きてさえいれば、食べ物を求めて街に出て人と関わることもあり、著者のようにそれがご縁で未来が変わるかもしれないのです。どんなに辛くてもなんとかなると勇気を与えてもらえます。

著者の場合は、経済的理由ではなく精神的理由による失踪、自殺未遂、浮浪者生活、鬱、アル中という経験をされていますが、

ブラックな業界の中で追い込まれるうちに精神が崩壊し、顕在意識では認識できずとも潜在意識でbreakthroughを求めていたのではと考えました。

漫画家7つ道具を工夫して調理したり、わざわざいかなくてもいいような場所まで行ってみたり、

崩壊した精神は、無意識に精神的な救いを求めていたのではないでしょうか。

なぜなら、一般的にはあり得ないような過酷な生活の中でも著者は本当に小さなことでも楽しみを見出しているからです。

また、配管工として働いていても、浮浪者としても漫画を描くことは辞めていないし、最終的には漫画として返り咲いているからです。

それにしてもアル中というのは、一度なったらほぼ元に戻ることは不可能と言われる中できちんと禁酒し漫画家生活に戻れたというは本当にすごいことなので、著者の精神力の強靭さに感心してしまいます。

まとめ:

元々すごい精神力の持ち主が、エグすぎるブラックの漫画業界でメンタルをやられ、精神の旅に出て、すごい土産を持って帰ってきた。

コミカルに描かれていますが、そんな本質が隠れているノンフィクションです。

『陰徳』の力

『陰徳を積む』を読んで強烈な印象を受けたのは、安田善次郎の生き方、考え方、そしてほとんど知らなかった彼の偉業に今更ながら衝撃を受けました。

明治、大正という激動の時代に自らの信念を貫き通し、世間の評価に動じることなく、なんと80歳を過ぎても現役バリバリの資産家としての務めを果たそうとする姿は、現代においても極めて稀な逸材ではないでしょうか。

『陰徳』に関しては、私は数年前に徳を積むということを教えて頂く機会がありました。しかし、徳には陰徳と陽徳というものがあるというのはこの本で初めて知りました。

なぜ安田善次郎は陰徳を重んじたのか。陽徳ではだめなのか。読み進めるうちに、陰徳だけではなく陽徳もバランス良く積めばいいのではないか。そんな風に考え始めました。

なぜなら、確かに陰徳にこだわり続けるからこそ安田善次郎は一代でこれだけの偉業を成すことができたのも事実ですが、もう一つの事実として、世間からだいぶ誤解され批判され最後は暗殺されてしまうという、非情な一面も招いてしまっていることが本書に書いてあるからです。

これだけでも、自分は一度きりの人生をどう生きるのか。深く考えさせられるのではないでしょうか。

あなたは陰徳派ですか?それとも陽徳派ですか?

この本では安田善次郎の人柄が細かに書かれています。

その中でも心に残ったのは、

「反対する時には徹底的に反対するのだが、納得すると誰よりも素直に受け入れる。それが安田善次郎だった。」の部分です。

このようになるには、確固たる信念、自分のブレない軸がなければこうはできないと思いました。

なぜなら、私自身が自分のことがよくわからないために特に難しい話になると反対なのか賛成なのかもわからなくなってしまうからです。

自分の考えや判断に絶対的な信頼と自信がないから、自ずと自分の意見の主張も、他人の意見に対する姿勢もなんとも曖昧になると痛感します。それではただ流されて無難な人生を自分で選んでいるようならものです。それはある意味で責任逃れと言っても過言ではありません。

日頃から学び、考え、己を知ることでまずは自分の意見を持ち信念をはっきりさせることが、相手と対等に意見を交わし良好な関係を築いていく基盤になると学びました。

次に、印象に残ったのは、

「すると彼は迷わず席を立ち、階下に下りて面会をしたという。階段を上らせるのはかわいそうだと考えたのだ。」

「問題は成功した後にある。成功しても自分を律し続け、謙虚さを失わないでいることのできる人間は悲しいほど少ない。それのできる者だけが、社会に認められる真の成功者となれるのだ」

の部分で、ここからも彼の人してのあり方がよくわかります。どれだけ成り上がっても謙虚さを持ち続けることがどれほど難しいことかは想像することしかできませんが、彼はどんな状況でもブレないのです。

例え両親から厳しく教えられていたとしても、親元を離れればほとんどの人が羽目を外したくなるのではないでしょうか。そうはならない彼は並々ならぬ努力で己を律する力を習得したのだと思います。

なぜなら、「一生懸命働き、女遊びをしない。遊び、怠け、他人に縋るときは天罰を与えてもらいたい」3つの誓いの中のこの言葉がそれを物語り、「善次郎の手控日記に〈宴会にて非常な一美人を見たり〉という記述もあることから、彼の眼にも美人はやはり美人に見えていたはずだが、彼の克己心は半端ではない。」というように、男盛りでありながら浮いた話が全くないからです。

彼は遊びはしないが多趣味という、そのエピソードからも陰徳が基になっていると思われることがあります。

「偕楽会や和敬会のような大物財界人との交流の場だけでなく、出世したしないにかかわらず人とのつながりを大切にする人だった。」

「損得ずくの付き合いなど長続きしないものだ。それに彼自身人間的魅力に恵まれていないと、こういう人脈は築けない。友人を見れば、その人の格も自ずとわかるものである。」

このように分け隔てなく、多くの人と付き合う懐の深さや彼の人間的魅力は、「すると彼は迷わず席を立ち、階下に下りて面会をしたという。階段を上らせるのはかわいそうだと考えたのだ。」というエピソードと併せておおもとの考えや信念が『陰徳を積む』ということだからではないかと考えました。

なぜなら、

「善次郎は信義を重んじて利を捨てた。だが同時に、老婆に安請け合いをした自分を悔やんでいた。」

数えきれない程の偉業を成し遂げる間にこのような状況があったのはとても意外でしたが、彼も迷ったり、後悔、葛藤しているからです。その一瞬より更に短い時間で、彼はその強靭な信念のもと選択し行動していたのです。

「銀行を救済するのは関係重役や株主を救うためではない。その裏に何千何十万の預金者があり、且つまたそれには多人数の家族があるので、それを救うのである。」と語る部分がありますが、この言葉通りたった一人の老婆に心を動かされ手を差し伸べられることが“正しいかどうか”ではなく“彼の中に通る強靭な筋”なのです。

ところが世間はそんな彼のことを梅雨知らず、知ろうともせず、言いたい放題で時に彼を傷つけます。

〈世間はかくまでに邪推深き執拗ものか〉こんな風に感じたとしても、こんな思いをしてまで、なぜ彼は損な役回りを引き受けることができたのか。普通であれば到底考えられないような不本意の批判にあったら心が折れるものです。

どんな状況でも自分の道を信じ変わらず淡々と実行する。その信念や覚悟はどこからきているのでしょう。それこそが、彼の教養や考察力、経験値、視座の高さから培わられた努力の賜物ではないかと考えます。

なぜなら

「ノブレスオブリージュを自覚し、小さな慈善事業ではなく大きな公益事業こそ資産家の役割」と語る善次郎は覚悟が決まっていて、いざ戦争となった時も自分も一緒に戦っているつもりでいると書いてあるからです。規模が違うのです。

どんなに“邪推深き執拗ものか”といった世間で嫌な思いをしても、彼にとっては自分の頑張りで世の中全体に大きく貢献出来る方が断然上なのです。

このことを通じて、学び考え視野を広めることの影響力を思い知りました。

最後に、彼の生き方について印象に残ったのが、80歳を過ぎて増田氏と大磯の別荘で囲碁を楽しむところです。

当時の男性の寿命はもっと短い気がしたので調べたところによると、「明治時代・大正時代は、男性の平均寿命は43才前後でほとんど変動がないことがわかります。 戦後直後の1947年で50才、1951年に60才、1971 年に70才、2013年に80才です。 」とありました。

これだけの偉業を成し遂げ、80歳を過ぎても現役バリバリというのは非常に想像しがたいことですが、文中から安田善次郎は年老いてからも万歩計を使用していたりダンベルで筋トレをしていたり、そもそも粗食であったりと健康的な要因は沢山あります。

ただし、ここまでの事業での相当のストレスを考えると超人的としか言いようがありません。

私はその超人的エネルギーの秘密は、彼の精神にあると考えました。

その理由は一つ目に、彼は身内に人間は100歳をも超えられる可能性を持っていると説いているからです。

二つ目に、大磯の別荘で増田氏と楽しむ姿がまるで小僧の頃に戻ったかのように楽しげであったと書かれているからです。

三つ目に安田善次郎の決してぶれない信念と自信は本書を読めば明らかですが、例え誰に誹謗されようとも彼は弱者にとり本当に意義のあることをしているという信念があるためです。

世間の非常な批判に臆することもなければ自分を責めることもせず、ただ真っ直ぐに前を見て、その信念のもと節制を守り体を気遣い、心健やかに、そして闘う時は闘う。

これぞ正にプロフェッショナルではないかととても感銘を受けるとともに、自分を律し考えた先の揺るぎない信念があれば、人はどこまでも若くエネルギッシュに行動できるのだと勇気づけられました。

〈50,60鼻垂れ小僧、男盛りは80,90〉

ほとんどの人が寿命の頃を鼻垂れ小僧という彼の言葉は非常に重みがあり、非常に励まされます。

元気に動けなければ、長生きしても楽しくないですから。

彼は自らの行動をもって80歳を過ぎてもピンピンした姿を証明していることが本書でわかります。

最後に、

「問題は成功した後にある。成功しても自分を律し続け、謙虚さを失わないでいることのできる人間は悲しいほど少ない。それのできる者だけが、社会に認められる真の成功者となれるのだ」と言われる彼は『陰徳を積む』を徹底したばかりに、世間から誤解を受けたまま暗殺という運命を受け入れることになりましたが、もし彼が陽徳もバランス良く大事にしていたら、生きている間にもっと評価され幸せな最期を迎えられたかもしれないという思いが拭い切れません。

しかしながら時代を超えて彼の評価が上がり続ける理由も『陰徳』なくして語ることのできない人生を生ききったからこそではないかと感じます。

結論として、私は陰徳賛成派であると答えが出ました。

なぜなら、信念を持って世の中を良くすると決意したのならばやることは、シンプルにそこに向かって行動するだけだからです。 

自分の行動や考えがどう世の為人の為になっているのか。そこからブレてはいないか。広い視点で、高い視座で考え続けること。それは世間の評価では決して測れない価値やエネルギーが確かに存在していると本書を通じて教えていただいた気がします。

本当の精神的自由とは

あなたは生まれてから一度でも、真の自由について考えたことがありますか? 私は自由の意味すら履き違えていたのだと思い知りました。 その理由は最後にお話しするとして、まずとにかくこの本の著者である主人公が、小さな日本の片隅で、独特の感覚を持ちながら成長される様子がとても印象的に感じました。

「古い日本には、厳格なうちにもこうして四海同胞の精神は脈々と流れていたわけでございます」

どうしたら若くしてこんな風に考え生きることができるのか。

その秘密は、もちろん彼女の素質も大きいかもしれませんが、文章から、厳しい躾や教育を受けただけではなく、自然、歴史ある建物やお城、日本の伝統文化多くの家族や女中さん達に囲まれ、様々なお客様と接する機会も多いことが伺えるので、その中で、著者は感性、好奇心、教養を高められ、思考を続けることでおのずと視座が高くなられたのではないかと考えました。

そう考えると、厳格なことも悪くないと思わせてくれます。ただ厳格なだけではなく、そこには深い愛があり、だからこその四海同胞の精神もある。それはそもそもが日本の神話や仏教を信じる心があるからこそ、生まれる精神なのではないかと考えました。なぜなら、日本神話は全ての物事に神が宿ると言われ全てを慈しむ心を伝えているからです。

主人公の神道、仏教、キリスト教に触れ信仰心とともに、感じ、考える姿勢が主人公の素晴らしい人格を作っていったのです。

それだけではなく、主人公は時代を越えて過去や古いことも慈しみ、感じ、考え、思いを馳せるということの大切さにも気づかせてくれます。

だからこそ、異文化や、新時代、新しく触れる全てにおいても受け入れ、愛するということができるのではないかと感じます。

なぜなら最後の部分で

「真の自由は、行動や言語や思想の自由を遙かにこえて発展しようとする精神的な力にあるのだということが判りました」と悟られていて、このような遥かにこえて発展しようとする精神的な力こそが、彼女がずっと行ってきたことだからです。

「皆が新調の着物を着、お互いに作法正しく、お精進料理を頂いて楽しみあうことをご先祖さまも喜んでいて下さると思うからでございます。」

「父は、私共のところへ参って慰め、また舟出をされた今も、私共に平和をのこして行って下さったのだと、しみじみ感ぜさせられたことでした。」といった言葉から、

このような目に見えないものを大切にする心が、古き良き伝統も消えつつあり核家族化が当たり前、自由が当たり前となった物質主義の現代において、他人との繋がりがドライになる中で決して忘れてはいけないことのように思えてならないのです。

“あのお坊さまから教えられたことを思い出して、学びの道にあるものが安逸を求めては恥だと思い、歩くことにしておりました。”

このような普通の人は素通りしてしまいそうな小さな事でも、それが例え辛い状況であっても、楽な方に流されず、苦しくても自分なりに考えて行動するという習慣があちらこちらに見られ、また、

「見物しながらも縫物や編物で、手は忙しそうに動いておりました」からも、新しく出会う人とのやり取りの中でも、このように抽象的視点、具体的視点と無意識に視座を変えながら本質への関心を深めていく姿が見られたため、その探究心こそがやがて大きな確信となるのだと感じました。

1人の母としても考えさせられました。

子供を想い可能性を広げてあげたいと願う気持ちと、その反面、社会のルールや世間に迷惑にならないようにという気持ちの狭間で“果たしてこのままでいいのだろうか。”と考えるのは、日本とアメリカでなくても、今の日本ではどこでどう育てるのか選択の自由があるだけに悩ましいところでもあります。

「日毎の忙しさにとりまぎれ、また家庭がうまく融けあってゆくのに満足しきっていましたので、年寄りの方で気持を撓めても、年若い子供を中心に考えてやるべきであるということをすっかり忘れておりました。私は得ることのみを考えて、その蔭に横わる大きな損失を忘れていたのでした。」親はつい表面的なことに意識がとられ大切なことを見落としがちかもしれませんが、『「いいのよ。私、もう日本が好きになったのよ。でもね、時々この胸に火がついたようになるのよ、そんな時、ずいぶん駈けたりしたわ。それから一度、お母さまのお留守の時、お縁側の傍の松の木に登ったのよ──たった一度だけ──もう登りませんわ。これでいいのよ、私は日本が大好きなんですもの」と申しました。』子供からのこんなメッセージから

『「ちょうど花野もこの通りだこと。松の植木は明日また植木鉢に入れられることでしょう。松も花野も同じなのだ」私は深い溜息とともにひとりごちました。』このように主人公は感じています。

私はアメリカ的に子供中心に考えてやることはとても大事だと思うのですが、日本の中で育つことにもまた意義のあることではないか。また大事なのは、その現実から本人が何を感じ何を学びその先を切り拓いていくかということなのであって、どちらが正しいということではないと感じました。

なぜなら、「私は花野が母の好み通りに適わせてゆく様を見て喜びながら」の言葉から、子供は素直で純粋で順応性が高いことがわかるからです。

子供はどこにいても、順応して育っていく。けれども、だからこそ日本にいるよりも、子供達の素質を伸ばせるような環境を与えてあげたいと願い模索する主人公に、母として深く共感し、今日も親としてのベストな行動を考えさせられるのでした。

一点悲しく感じたことは、

昔の人は身分の差であり方も人生も決まってしまう。ということです。これは世界の歴史をみても明らかですし、現代においても未だそのような制度が残っている部分もあります。かたや、現代の国のほとんどはお金が人生を支配していると言っても過言ではないことに気付きました。

主人公はそれなりに恵まれた環境で育ったと思います。それなりの教育や躾を受けたからこその素晴らしいお人柄とも言えるのではないでしょうか。学びたくても、環境が許さない人の方が多い、もっと過酷な状況で生きている人ももちろんいたことでしょう。なぜなら、主人公の家ですらも、散り散りになったことから人々は現代とは比較にならない程の厳しい制度のもと生きていたことが伺えるからです。

それでも生き延び、主人公が全く違う世界を生きるようになったことはご縁あってのことが大きいですが、現代においては、努力で環境が変えられるという点に気付けたことは私の中で大きな気付きとなりました。

最後に私が最も印象に残ったのは、

「あから顔の異人さんも、神国日本の人々も、今尚互いの心を理解しおうてはおりませず、この秘密は今も尚かくされたままになっておりますが、船の往来は今なお絶えることもございません。絶えることもございません。」の部分です。

国が変わっても、人情は同じであるのに、なかなか理解し合うことができないもどかしさの問いかけとも言えるようなこの最後の言葉には大変心を打たれました。

この作品を書くまでに(異国で日本について考えさせられる機会が多かったとしても)どれだけのことを主人公が考えてきたのかを想像すると、正に人間の真理をついた言葉であるため、普段いかに考えもせずに自分自身や人、ものごとと関わってきたか気づかされます。

私達1人1人がしっかりと考え、想像していくことでそのかくされた秘密は明らかになり、国境を越え人種を越え理解し合う世界を作ることができるのではないかと語りかけてくれているような気がしました。

なぜなら、主人公自身がアメリカで関わった周りの人達と、素晴らしい人間関係を築き、国境や人種を越え精神的に理解し合う世界を築いているからです。

まとめ:時代の変化に対応するということ、異文化を受け入れるということは、最近の日本の若者を見ていると当たり前で容易いことのように感じてしまいますが、実は私達現代人の御先祖様たちは真逆のような世界を生きてこられたのだと思うと、何気なく繰り返されるこの日常が夢の中の世界のようで本当にありがたいことなのだということです。

武士の娘としても、グローバル化社会の先駆者としても、令和に生きる私達よりも先を行くような思考力に圧倒されつつも、私はこの主人公の後に続き、全力で考え、ありのままを受け入れ慈しむ精神を持ち人生を生ききることで、御先祖様たちからの命のバトンを、次の世代へと繋いでいきます。

高校生のための論理思考トレーニングを読んで

この本で学んだことは、本来「論理」が存在しない日本語は文化、日本の個性として守るということを前提に、世界共通言語である英語のロジカルジギングを理解して日本語に応用することで、このグローバルな時代で通用するコミュニケーションスキルを身につける必要があるということ。

そもそもの言語の歴史的背景や文化が違いすぎる日本と英語。日本語に論理という概念がないところに、英語の論理思考が入り込んできた影響というのは、私には知る由もなかったのだが、

この本の例えに出てくるような、日本の中だけでも世代間のコミュニケーションで食い違いが起こっているということは、まさにザ・日本人的思考の年配層と英語文化に無意識に影響を受け育った若者世代で考え方や受け取り方が違うのは当然といえば当然のことなのだが、

それはネットでのやりとりが当たり前のこの時代に実は大きな弊害となるのではと危機感を覚えた。

かたやオブラートに包んで本音を隠し“察して下さい”というスタンスの人間と、本音で建設的なやりとりをしたい人間が、どうしたらスムーズに会話ができるだろうか。

そんな視点で考えてみると、それはまるで違う言語で会話をするのと同じくらい無謀なことを、私達は何の疑問もなく自然にやってしまっているのではないか。なぜ同じ日本で育ち、そのような悲しい事象が起こってしまうのか、誰が楽しくてこんな日本にしたのだろう。と狐につままれるような不可思議な感覚に襲われる。それが、著者のいう“日本語はロジカルには運用できないのに、ロジカルの正しい認識なく日本で論理がもたらしてしまった現実なのだろう。

では私達はこれからどうすればいいのか。

ロジカルシンキングの背景にあるアメリカの文化というのは、言論の自由があり個性を認める素晴らしい文化であることを理解した上で、

日本のハラ芸、察して、察する、言わぬが花、こういったものが良いか悪いかということではなく、それそのものが文化であり日本の歴史そのものであることは、私達日本人自身がもっと自覚し堂々と世界へ伝えていくべきなのではないかと思う。(日本人以外の人が理解するのは難しいとは思うが、この素晴らしい文化をアピールする努力をしてもいいのでは)

日本人の良さを意識して認識し、ロジカルの良さを取り入れて使いこなすことができれば、日本人同士であっても、よりグローバルな人間関係をも、良好にしていけるだろう。

少なくとも私は今から高校生と同じように、短い文章でトレーニングを積み、日本語の良さもロジカルシンキングも自分の子供と共有していきたい。

今こそ日本人魂を思い出せ!

日本人魂を思い出せと言っても、昭和後半や平成生まれにとっては、日本人魂とはなんぞや、遠くで知らないおじさんがまた何か言ってるぞと言った感じで、日本人魂がどこか“ひとごと”になってしまっているかもしれない。

私はそんな世代だからこそ、今この本に出会えて本当に良かったと心から思う。



『木曜島』はオーストラリアの木曜島で海底に潜り、高級ボタンの素材となる貝を採っていた日本人ダイヴァーに纏わる記録文学的作品となっている。著者は、知人の伯父達がダイバーだったことで幼い頃から伯父達の経験談を何度も何度も聞いていた。

彼はその当時の痕跡を求めはるばる木曜島へ訪島し、夜会に招かれ現地の人たちと語らうのである。昔話を聞いて終わりにしないところが、著者のすごいところである。

私が物心ついた頃は平成になっていたので、なおのこと日本人魂など思い出そうと思っても思い出そうと思ったところでイマイチわからないし、想像してもはっきりとしない。

しかしこの本をじっくりと読めば、痛い程に日本人の本質というものが伺えるのである。

そしてその日本人魂を思い出し、これからこの先にどう生かすのか。


《どんなことも糧とする心構え》

主人公達でさえ昔話をしてもいいくらいのいい大人にも関わらず、

「子供のようにこの種の話をきかされつづけている自分に多少の滑稽感を覚えることがある。」とも言いながら何度も老人の話を聞いている部分では、私が幼い頃同じように祖父母の話の聞き役だったことと重った。

今では祖父母は他界し話を聞くことはもうできないが、主人公達のように、老人の話を聞く意味や意義というのは、今ならわかる。

なぜなら、老人の話というのは人生の経験が全て詰まっていて、参照枠の極みであるからである。

まして、この宮座鞍蔵老人はダイバーとして記録を残した類稀なる精神力の持ち主。

私の祖父母も第二次世界大戦を経験し生き残った世代。もっと色々な話を聞きたかったと思っても、後悔先に立たずとはまさにこのことである。


主人公達が50才を過ぎて滑稽感を覚えつつもつい何度も話を聞いて考察していく理由は、老人への敬意と、その経験を聞くことで自分自身のあり方や生き方へと繋げたい、そんな思いがあるからこそなのではないか。


その理由は、「甥と私は、長いあいだ、うかつなままでいた。」p95から、

やはり若い頃はただ話の聞き役をしていたことが想像できる。

いい歳になってようやく老人の話を何度もよく聞いてことの意義を見出し考察を始めたことが伺える。

私も、20歳頃は祖父母の同じ話を何度も聞くことは滑稽感を感じていたし、小学生の頃は素直すぎて、それこの前も聞いたよとまで言ってしまったことなどは本当に浅はかの極みだと大反省している。

若い頃には難しいかもしれないが、

当たり前のことだが、人の話を聞くということが、どれだけ価値があるのかを改めて学んだ。


《考察力と思考力の基準値の違い》

当時の日本人が、なぜダイバーとして大活躍したのかを主人公は調べ考察していくのだが、

オーストラリア国立大学のデイビッド・C・S・シソンズ教授が、「一八七一~一九四六年のオーストラリアの日本人」に書いている』の部分で、そんな本があること自体私は知らない上に、本を書くということがどれだけの作業と知識と考察の上で成り立つのかが垣間見れた気がして本当に気が遠くなる思いがした。

本を書きたいとは全く思わないが、作家のすごさを思い知り、また、本を読むことの大切さを改めて感じた。

たった木曜島の昔のダイバーの話だけでこんなに深く考察し話が書けるなんて、もう開いた口が塞がらない。


それから、ダイバーが平均して1日に5〜6回潜るのに対し、なぜ日本人ダイバーが日に50回以上潜ることができたのか。そのダイバーとしてのエネルギーがどこからくるのかについて書かれているが、人種別、歴史的背景、日本でも江戸時代から昭和初期のその土地その土地の経済の歴史的背景からの金銭への感覚の違いを考察した上で、シソンズ教授の文献と照らし合わせ、実際に元ダイバーにインタビューしているということも相当なリサーチであるということが、読書感想文のリサーチとはなんぞやという赤ちゃんレベルの私には衝撃だった。


最後に、当時の日本人の金銭への強い願望が結果的に世界一のダイバーを生み出したという部分でも考えさせられる。

家族が負債を抱え危機的状況で、無人島で命がけで稼がなければならない仕事で果たして自分ならその運命に立ち向かえるだろうか。

好きなことを仕事にできるなんていう時代になってきていることを知ったらこの時代の人々はどう思うか。そう考えると、今の自分の悩みがどれだけちっぽけな悩みか、今の日本はちっぽけな悩みでみんな必死という世界なのだということを思い知らされる。そしてそれは、この作品を通じて視点を変えれば努力次第でどうにでもできるのではないかと、時代の変革期の今、一般人の私にもそう思わせてくれる。


《異常なまでのエネルギー源は心にあり》


ダイバーの船上での食事は朝昼が船上でイーストを入れて焼くパン、夜はタイ飯。3食肉とポテトがつき、唯一飽きないのは釣れたての魚であるという衝撃の食生活に驚かされる。その食事で日が昇る前から晩まで50回海に潜るということ。
私は仕事で食べ物について考えることが多いのだが、途中から体は食べ物でできているけれども、実は体は心でできているのではないかと思い始めて今に至っている。
おそらくほんの一部の人しかそんな風に考えないと思うのだが、このダイバーの食生活を知りやはり人の体は心でできているという仮説がより確かなものなのかもしれないと感じた。
もちろん晩年の体調や寿命への影響はあるにせよ、長生きすれば良いというものでもないので、今も昔も一長一短。
例え寿命が短くとも、彼らのように人生を生き抜くその生き様からとてつもないエネルギーを感じることができる。食べているのはパンと肉とじゃがいもであるのに、だ。
そして本を通じて世代を越えてそのエネルギー感を受け取れるということでまた一つ、私は本に魅了されるのである。

《結果より大事なこと》
日本人でもやはりダイバーになれない人もいて、うまくやればダイバーになれたものを、うまくやれなかったのかうまくやりたくなかったのか、脱落するしかなかった千松おじは、それでもプライドが高いせいか日本には戻れず木曜島での厳しい人生を選んだ。
博打場を開く道しかない運命を拒み、彷徨い続け、ある日偶然に拾った手紙がきっかけでホテルの調理場で働くこととなり、そのうち別のホテルを経営するようになるというのは、やはり当時の日本人の底力を感じずにはいられない。
自分の心の声に従い諦めずひたむきに歩みチャンスを逃さない。今の私達にこそ必要なメッセージが隠れているのではないか。
成果や結果主義の社会であっても、彼らの生き様をみると、どんな人間でどんな状況に置かれていたとしても、一歩一歩が積み重なることこそドラマがあり人を感動させるエネルギーが溢れているのだと学んだ。

《まとめ:木曜島の夜会から学んだ日本人魂》

そもそもあの時代に日本を出てわざわざオーストラリアの北の無人島へ出稼ぎに行くこと自体、考えられない行動力であり、なかなか真似しようと思ってもできないのではないか。

著者の知人も幼い頃は、自分がいずれ外国に連れて行かれるとビクビクしているのである。

しかしダイバーの偉大な功績を日本で耳にすることが増え、叔父達は彼等の英雄となるのである。

そのことで、意外にも多くのダイバーへの夢を抱き渡航していくこととなる。

もちろん、夢だけで大成できる程簡単な仕事ではないため、これまた多くの日本人が貝採りの最中に命を落としている。

ダイバーになる方法は教えてもらえる訳がなく、

「死体が揚がると、仲間の者が、その潜水服を自分が着るべくとんで行った」という言葉が、ダイバーへの道の過酷な状況を物語っている。

『あるのは、「海の底で職をやっていると、欲も得もなくなってしまう」という習性のようであった。』




この本から学んだことは、

どんな場所にいても、どんな状況でも、

諦めたらそこで試合終了であり、

そこに何を見出し、行動を続けるのか。

自分を信じ進み続ける力。

この激動の今だからこそ、

昔の本をもっと読み追体験することで日本人魂を引き継きつぐ必要性がある。

そしてピンチをチャンスへと転換し、1人1人が時代を切り開いていく可能性に目覚める時なのではないかと感じました。