今こそ日本人魂を思い出せ!

日本人魂を思い出せと言っても、昭和後半や平成生まれにとっては、日本人魂とはなんぞや、遠くで知らないおじさんがまた何か言ってるぞと言った感じで、日本人魂がどこか“ひとごと”になってしまっているかもしれない。

私はそんな世代だからこそ、今この本に出会えて本当に良かったと心から思う。



『木曜島』はオーストラリアの木曜島で海底に潜り、高級ボタンの素材となる貝を採っていた日本人ダイヴァーに纏わる記録文学的作品となっている。著者は、知人の伯父達がダイバーだったことで幼い頃から伯父達の経験談を何度も何度も聞いていた。

彼はその当時の痕跡を求めはるばる木曜島へ訪島し、夜会に招かれ現地の人たちと語らうのである。昔話を聞いて終わりにしないところが、著者のすごいところである。

私が物心ついた頃は平成になっていたので、なおのこと日本人魂など思い出そうと思っても思い出そうと思ったところでイマイチわからないし、想像してもはっきりとしない。

しかしこの本をじっくりと読めば、痛い程に日本人の本質というものが伺えるのである。

そしてその日本人魂を思い出し、これからこの先にどう生かすのか。


《どんなことも糧とする心構え》

主人公達でさえ昔話をしてもいいくらいのいい大人にも関わらず、

「子供のようにこの種の話をきかされつづけている自分に多少の滑稽感を覚えることがある。」とも言いながら何度も老人の話を聞いている部分では、私が幼い頃同じように祖父母の話の聞き役だったことと重った。

今では祖父母は他界し話を聞くことはもうできないが、主人公達のように、老人の話を聞く意味や意義というのは、今ならわかる。

なぜなら、老人の話というのは人生の経験が全て詰まっていて、参照枠の極みであるからである。

まして、この宮座鞍蔵老人はダイバーとして記録を残した類稀なる精神力の持ち主。

私の祖父母も第二次世界大戦を経験し生き残った世代。もっと色々な話を聞きたかったと思っても、後悔先に立たずとはまさにこのことである。


主人公達が50才を過ぎて滑稽感を覚えつつもつい何度も話を聞いて考察していく理由は、老人への敬意と、その経験を聞くことで自分自身のあり方や生き方へと繋げたい、そんな思いがあるからこそなのではないか。


その理由は、「甥と私は、長いあいだ、うかつなままでいた。」p95から、

やはり若い頃はただ話の聞き役をしていたことが想像できる。

いい歳になってようやく老人の話を何度もよく聞いてことの意義を見出し考察を始めたことが伺える。

私も、20歳頃は祖父母の同じ話を何度も聞くことは滑稽感を感じていたし、小学生の頃は素直すぎて、それこの前も聞いたよとまで言ってしまったことなどは本当に浅はかの極みだと大反省している。

若い頃には難しいかもしれないが、

当たり前のことだが、人の話を聞くということが、どれだけ価値があるのかを改めて学んだ。


《考察力と思考力の基準値の違い》

当時の日本人が、なぜダイバーとして大活躍したのかを主人公は調べ考察していくのだが、

オーストラリア国立大学のデイビッド・C・S・シソンズ教授が、「一八七一~一九四六年のオーストラリアの日本人」に書いている』の部分で、そんな本があること自体私は知らない上に、本を書くということがどれだけの作業と知識と考察の上で成り立つのかが垣間見れた気がして本当に気が遠くなる思いがした。

本を書きたいとは全く思わないが、作家のすごさを思い知り、また、本を読むことの大切さを改めて感じた。

たった木曜島の昔のダイバーの話だけでこんなに深く考察し話が書けるなんて、もう開いた口が塞がらない。


それから、ダイバーが平均して1日に5〜6回潜るのに対し、なぜ日本人ダイバーが日に50回以上潜ることができたのか。そのダイバーとしてのエネルギーがどこからくるのかについて書かれているが、人種別、歴史的背景、日本でも江戸時代から昭和初期のその土地その土地の経済の歴史的背景からの金銭への感覚の違いを考察した上で、シソンズ教授の文献と照らし合わせ、実際に元ダイバーにインタビューしているということも相当なリサーチであるということが、読書感想文のリサーチとはなんぞやという赤ちゃんレベルの私には衝撃だった。


最後に、当時の日本人の金銭への強い願望が結果的に世界一のダイバーを生み出したという部分でも考えさせられる。

家族が負債を抱え危機的状況で、無人島で命がけで稼がなければならない仕事で果たして自分ならその運命に立ち向かえるだろうか。

好きなことを仕事にできるなんていう時代になってきていることを知ったらこの時代の人々はどう思うか。そう考えると、今の自分の悩みがどれだけちっぽけな悩みか、今の日本はちっぽけな悩みでみんな必死という世界なのだということを思い知らされる。そしてそれは、この作品を通じて視点を変えれば努力次第でどうにでもできるのではないかと、時代の変革期の今、一般人の私にもそう思わせてくれる。


《異常なまでのエネルギー源は心にあり》


ダイバーの船上での食事は朝昼が船上でイーストを入れて焼くパン、夜はタイ飯。3食肉とポテトがつき、唯一飽きないのは釣れたての魚であるという衝撃の食生活に驚かされる。その食事で日が昇る前から晩まで50回海に潜るということ。
私は仕事で食べ物について考えることが多いのだが、途中から体は食べ物でできているけれども、実は体は心でできているのではないかと思い始めて今に至っている。
おそらくほんの一部の人しかそんな風に考えないと思うのだが、このダイバーの食生活を知りやはり人の体は心でできているという仮説がより確かなものなのかもしれないと感じた。
もちろん晩年の体調や寿命への影響はあるにせよ、長生きすれば良いというものでもないので、今も昔も一長一短。
例え寿命が短くとも、彼らのように人生を生き抜くその生き様からとてつもないエネルギーを感じることができる。食べているのはパンと肉とじゃがいもであるのに、だ。
そして本を通じて世代を越えてそのエネルギー感を受け取れるということでまた一つ、私は本に魅了されるのである。

《結果より大事なこと》
日本人でもやはりダイバーになれない人もいて、うまくやればダイバーになれたものを、うまくやれなかったのかうまくやりたくなかったのか、脱落するしかなかった千松おじは、それでもプライドが高いせいか日本には戻れず木曜島での厳しい人生を選んだ。
博打場を開く道しかない運命を拒み、彷徨い続け、ある日偶然に拾った手紙がきっかけでホテルの調理場で働くこととなり、そのうち別のホテルを経営するようになるというのは、やはり当時の日本人の底力を感じずにはいられない。
自分の心の声に従い諦めずひたむきに歩みチャンスを逃さない。今の私達にこそ必要なメッセージが隠れているのではないか。
成果や結果主義の社会であっても、彼らの生き様をみると、どんな人間でどんな状況に置かれていたとしても、一歩一歩が積み重なることこそドラマがあり人を感動させるエネルギーが溢れているのだと学んだ。

《まとめ:木曜島の夜会から学んだ日本人魂》

そもそもあの時代に日本を出てわざわざオーストラリアの北の無人島へ出稼ぎに行くこと自体、考えられない行動力であり、なかなか真似しようと思ってもできないのではないか。

著者の知人も幼い頃は、自分がいずれ外国に連れて行かれるとビクビクしているのである。

しかしダイバーの偉大な功績を日本で耳にすることが増え、叔父達は彼等の英雄となるのである。

そのことで、意外にも多くのダイバーへの夢を抱き渡航していくこととなる。

もちろん、夢だけで大成できる程簡単な仕事ではないため、これまた多くの日本人が貝採りの最中に命を落としている。

ダイバーになる方法は教えてもらえる訳がなく、

「死体が揚がると、仲間の者が、その潜水服を自分が着るべくとんで行った」という言葉が、ダイバーへの道の過酷な状況を物語っている。

『あるのは、「海の底で職をやっていると、欲も得もなくなってしまう」という習性のようであった。』




この本から学んだことは、

どんな場所にいても、どんな状況でも、

諦めたらそこで試合終了であり、

そこに何を見出し、行動を続けるのか。

自分を信じ進み続ける力。

この激動の今だからこそ、

昔の本をもっと読み追体験することで日本人魂を引き継きつぐ必要性がある。

そしてピンチをチャンスへと転換し、1人1人が時代を切り開いていく可能性に目覚める時なのではないかと感じました。